下豊留です。
鹿児島市常磐町にある西郷家のお墓をご紹介します。
西郷隆盛の親族のお墓があります。
南洲墓地には行かれても、西郷家の墓地は行ったことが無いよという方も多いのではないでしょうか。

やくし乳児院・薬師保育園の斜め向かい側にあります

少し見つけにくいと思いますが、「史跡表示③ 西郷家の墓地」という看板が目印です。

西郷家の墓地入口

入ると多くのお墓が並んでいるのですが、どなたのお墓か分かりづらいので隆盛に近い方々をご紹介します。

配置図

西郷吉兵衛

西郷隆盛の曾祖父です。(お父さんも同じ吉兵衛という名前です)

西郷吉兵衛(曾祖父)の墓

お墓の右側に「西郷吉兵衛」と書いてあります。
享和3年1月28日に亡くなっていることが分かります。

西郷吉兵衛(曾祖父)の墓正面

西郷吉兵衛の妻

西郷隆盛の曾祖母です。

西郷吉兵衛妻(曾祖母)の墓

天明8年9月20日に亡くなっていることが分かります。
右側に「西郷吉兵衛妻」と書かれています。

妻と書かれているので、曾祖母だということが分かります

西郷龍右衛門

西郷隆盛の祖父です。

西郷龍右衛門(祖父)の墓

「西壽遊山居士」と書かれているお墓です。
嘉永5年7月18日に亡くなったことが分かります。

龍右衛門とは書かれていないので戒名で探してください

西郷龍右衛門の妻

西郷隆盛の祖母です。

西郷龍右衛門妻(祖母)の墓

正面には「壽操貞延大姉」
右側に「西郷龍右衛門妻」と書かれています。

西郷龍右衛門妻と書いてあるのが目印です

左側には亡くなった日が書かれていて、文久2年5月29日ということが分かります。
おばあ様は、隆盛の祖父・父・母より長生きされています。

龍右衛門妻の墓左側

西郷吉兵衛

西郷隆盛の父です。

西郷吉兵衛(父)の墓

正面には「自覚院」と書いています。

「自覚院」が目印です


左側には「祖栄忠道居士」と、亡くなった日「嘉永5年9月27日」が書かれています。

西郷吉兵衛(父)の墓左側

西郷満佐

西郷隆盛の母です。

西郷満佐(母)の墓

正面には「圓眞霜鏡大姉」
右側に「西郷吉兵衛妻」と書いてあります。

西郷満佐の墓正面
西郷吉兵衛妻

亡くなった日が「嘉永5年11月29日」とお墓を見て分かるように、
祖父の龍右衛門・父の吉兵衛・母の満佐と2ヶ月おきに3人続けて亡くなっています。
西郷家にとって嘉永5年はとても辛く悲しい1年だったでしょう。

西郷吉二郎

西郷隆盛の弟です。

西郷吉二郎(弟)の墓

ひときわ大きな墓石で、正面は「西郷吉二郎隆廣之墓」と書かれています。
裏側に書いてあることを要約するとこのような感じです。

戊辰戦争に出陣、越後(新潟)の五十嵐川で弾丸に当たり負傷、柏崎病院で死亡、高田に葬る。享年36歳。

西郷吉二郎の墓後ろ側

西郷マス

西郷隆盛の弟・吉二郎の先妻です。

西郷マス(吉二郎の妻)の墓

正面は「玉質貞艶大姉」
右側に「西郷吉二郎妻」

西郷吉二郎妻

左側には亡くなった日「慶応元年10月16日」

西郷マスの墓左側

西郷隆盛は遠島になったり上京したりと家を留守にすることが多かったため、家のことは吉二郎やマスが支えたことでしょう。

西郷園

西郷隆盛の弟・吉二郎の後妻です。
マスが死去した後に結婚しています。

西郷園(吉二郎の妻)の墓

正面には「西郷園子之墓」
右側には亡くなった日「明治29年11月13日」

西郷園の墓右側

吉二郎は戦死するため、結婚生活はとても短いものでした。
吉二郎亡き後も、吉二郎と先妻の子を育てました。

西郷松子・幸吉の墓

西郷隆盛の弟・小兵衛の妻と長男です。
松子はマスという名前でしたが、吉二郎の妻と同姓のため名前を変えています。

西郷松子(小兵衛の妻)・幸吉(小兵衛の息子)の墓

正面は「西郷家之墓 矢部貞治謹書」とあります。
矢部貞治は政治学者で拓殖大学総長を務めた方です。
西郷菊次郎、隆治、隆秀が柘植大学と縁があるからでしょう。
小兵衛は、西郷隆盛とともに西南戦争に出陣。熊本で亡くなっています。

お墓の左側を見てください。

西郷家之墓左側

夫と息子に先立たれた松子のことを思うと胸が苦しくなります。

西郷菊次郎(と子孫)

西郷隆盛と奄美大島龍郷の愛加那との子どもです。

西郷菊次郎の墓

「西郷家之墓」は、元総理の吉田茂が書いたものです。
菊次郎の子孫も同じお墓です。

菊次郎のお墓の左側にあります

西郷準については、紹介動画をご覧ください。

西郷準の紹介

西郷菊次郎の功績の紹介もしています。お墓の話も少ししています。

西郷菊次郎の紹介

琉仲祐

西郷家の親族では無いのですが、西郷隆盛を慕っていた徳之島の青年のお墓も一緒にあります。
徳之島の島役人琉仲為の子・仲祐の墓です。

琉仲祐の墓

隆盛が徳之島に流された際にお世話をした人物が、琉仲為です。
息子の仲祐は、慶応2(1866)年の隆盛上京に同行しました。
しかし、上京してすぐに亡くなってしまったのです。
右側には「於京都没徳之島仲祐」と書かれています。

徳之島仲祐

西郷家のお墓とともに仲祐のお墓があることから、
隆盛は、仲祐の死をとても悲しんだのだろうと想像できます。

番外編:薩英戦争本陣跡

また、すぐ近くに薩英戦争本陣跡(千眼寺跡)があります。
西田小学校の近くです。こちらも是非!

薩英戦争本陣跡
千眼寺跡

投稿者プロフィール

下豊留 佳奈
下豊留 佳奈
オフィスいろは
下豊留佳奈(しもとよどめ かな)
鹿児島生まれの鹿児島育ち。
地元が元気になればと思いあれこれ活動しています。
共著に『鹿児島偉人カルタ55』(燦燦舎)
2021かごしまの新特産品コンクールで鹿児島県観光連盟会長賞を受賞しました。
第一工科大学と鹿児島第一医療リハビリ専門学校の非常勤講師
鹿児島県立図書館協議会委員
昔話と歩くことが好きです。