豊臣秀吉・徳川家康との攻防

前回は島津氏の南九州の平定と九州全土の勢力拡大について紹介しましたが、今回は2回にわたる敗戦にもかかわらず、なぜ南九州三国(日向国は一部)の領土を守り、時の権力者から領土の安堵を約束させたか、そこには敗戦後の豊臣秀吉・徳川家康との間にどのような交渉や駆け引きがあったのかについて紹介します。

1 豊後(大分)の攻略戦

(てん)(しょう)14年(1586)10月、九州全土の平定を目前とした島津軍は、大友氏が守る大分の鶴賀(つるが)(じょう)を攻めました。これに対抗して、大友氏救援のため豊臣軍は先遣隊として四国連合軍(讃岐(さぬき)淡路(あわじ)土佐(とさ)勢)が派遣され大友軍と合流しましたが、島津勢の巧みな戦略によって数多くの将兵を討ち取られ、鶴賀城は陥落(かんらく)しました。

この戦いは、島津勢にとっても多くの将兵を犠牲にしたぎりぎりの勝利でありました。本拠地である南九州から遠く離れ、将兵の投入や兵站(へいたん)逐次(ちくじ)供給にも困難になりつつあり、進撃の勢いは限界に達していました。その後は、北九州方面からの圧倒的多数の豊臣軍本隊が攻勢を強めたため、各所で敗退。島津軍は撤退を繰り返し、日向の高城(たかじょう)で降伏しました。

2 戦後処理の駆け引き その1

天正15年4月21日、島津義久は豊臣(とよとみ)(ひで)(なが)(秀吉の弟)に和睦の申し入れを行い、秀長もこれに応じ秀吉への取りなしを約束しました。5月8日、島津義久は剃髪(ていはつ)し出家した姿となり、薩摩川内まで進出していた豊臣秀吉と泰平寺(たいへいじ)にて会見し、正式に降伏しました。

この時の秀吉は、身ひとつで伺候(しこう)してきた義久に対し、腰の太刀を与えるなど寛容(かんよう)さをみせましたが、島津家には薩摩国の一国しか与えないつもりでした。

国 名当初の領土分配交渉後の領土分配
豊後国大友(よし)(むね)大友義統
日向国大友宗麟、伊東祐兵(すけたか)大友宗麟、伊東祐兵(すけたか) 島津義久(諸県郡(もろかたぐん)
大隅国長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)(ちか)島津義久
薩摩国島津義久島津義弘
秀吉が想定していた領土配分(交渉によって変更)
泰平寺

秀吉の意向を知った義久は、主戦派であった島津義弘(よしひろ)(とし)(ひさ)らに徹底抗戦の準備をはじめさせ、義久本人は傍観(ぼうかん)する立場をとりました。これを知った秀吉は、島津領を平定させるには多大な損害を(こうむ)るとみて、主戦派の開城を条件に薩摩国・大隅国・日向国(諸県郡)の領土安堵が許されました。

3 関ケ原の戦い

慶長(けいちょう)5年(1600)9月15日、関ケ原の戦いにおいて、島津氏は当初から西軍に(くみ)していたのでしょうか。関ケ原の戦いのきっかけとなった会津の上杉討伐に際、島津氏は徳川家康から伏見(ふしみ)(じょう)の留守居役を命じられており、家康の指示に従っていました。

島津義弘は、家康からの援軍要請を受けて約1,000人の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居(とりい)元忠(もとただ)籠城(ろうじょう)する伏見城の援軍に()せ参じましたが、鳥居元忠は家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の陣営を(ひるがえ)して西軍につきました。

戦いが始まりますと静観し続け、西軍の指揮を執っていた石田三成から戦いに加わるようとの再三の要請にも応じず、戦いには加わりませんでした。

西軍が総崩れになる中、最後まで戦いわず戦場に留まっていた島津軍は、的中突破による前進退却を敢行(かんこう)し、多大な犠牲を払いながらも、大将の島津義弘を帰国させました。世にも名高い「島津の退き口(のきぐち)」です。この時の戦いは、大将を逃がすために小部隊を留め置き、追ってくる敵と全員が死ぬまで戦って足止めをする「捨て(すて)(かまり)」という壮絶な戦法を執りました。

4 戦後処理の駆け引き その2

島津氏にとって、関ケ原の戦いの後が本当の戦いであったと思われます。戦後、徳川家康は領土の安堵を示して幾度となく上洛を求めましたが、島津義久・義弘兄弟は理由を付けては上洛を拒みました。ちなみに、早々と上洛した四国の長宗我部元親は領土を没収されています。

その間にも、島津氏は家康の重臣である榊原(さかきばら)(やす)(まさ)井伊(いい)(すな)(まさ)らと交渉を重ね、慶長7年(1602)に家康は島津氏の本領安堵を決定します。戦後、1年以上を費やした交渉が実った瞬間でした。その理由は、以下の茶番みたいな理由を挙げて領土安堵となりました。

➀ 家康に与していたが鳥居元忠と折り合わなかった
② 関ケ原の戦いは、義弘の行動は個人行動である
③ 当主の島津義久および一族は戦いに承認・参加していない
④ 島津義久とは仲がいいので義弘の(とが)めは無しとする
➄ よって島津家そのものに処分はしない

5 したたかな戦略と地政的要因

2度の大きな戦いの敗戦は、島津氏にとっては一族の滅亡であり、最大のピンチでありました。この危機的状況をしたたかな戦略(調(ちょう)(りゃく))によって切り抜け、幕末まで続いた薩摩藩を築けたのも、島津一門の智謀もありますが、私は地政学的側面もあったのではないかと思っています。

大隅という国名は、和銅(わどう)6年(713)、九州最後(9つ目の国。すなわち九州となった)の律令国として建国しましたが、この「大隅」とは、一番隅っこ、すなわち日本で一番辺境にある国という意味もありました。

島津氏が治めていた地は九州の南端、すなわち一番の辺境であり、豊臣秀吉も徳川家康も危険な一族は辺境に閉じ込めていた方が良策と考えていたのではないでしょうか。

家康が(のち)に、加藤(かとう)(きよ)(まさ)に命じて、難攻不落の名城「熊本城」を熊本の地に築かせたのも、島津氏を封じ込めるために造ったとも考えられます。ちなみに、明治10年の西南戦争で西郷軍は最後まで熊本城を陥落させることができず、これが戦いの敗因となった、ともされています。

仮に、島津家が九州北部や中・四国あたりに領土を持っていたら、あるいは滅亡させられていたかもしれません。戦上手で勇猛で死を恐れない軍団、秀吉も家康もさぞや厄介な一族と思っていたのではないでしょうか。           文責:鈴木

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