島津義久と霧島 その7 (舞鶴城の築城②)

1 整然とした城下町

島津義久は、舞鶴城の築城に合わせて、城下町の整備も行いました。整備前の地形ははっきりしていませんが、舞鶴城の西隣に大隅国分寺跡があり、国分寺の建立は平城京や平安京のように東西南北に合わせて整地を行うことから、国分寺を中心とした東西南北に広がる街並みとなっていたと思われます。

            舞鶴城の詰め城(隼人城)

この古い街並みを、舞鶴城を基準(真北より約20度東に傾く)として約七百メートル四方の城下町を整備しました。

城下町の整備に際しては、町の繁栄を促すため、京の陰陽(おんみょう)博士(はかせ)(陰陽師を教育する教授)の賀茂在(かものあり)(まさ)の占いにより、南北五本、東西九本の道を、碁盤の目のような整然とした町を造りました。この時の南北の五本の道は現在でもわかりますが、東西(横)の全ての九本の道については判明していません。

2 なぜ、整然とした城下町を造ったのか

私が初めて国分に住んだ時、国分の街並みを見て「整然としたきれいな街並みだなぁ」と感じたのを今でも思い出します。歴史のある街並みは、どちらかというと、T字や三叉路、袋小路など見通しの悪い構造をしています。これは、戦いに備えたつくりをしており、国分地方では、清水、(しき)()東襲山(ひがしそのやま)地区でこのような街並みが見られます。

では、なぜこのような整然とした街並みを造ったのでしょうか。それは、これまでも述べてきましたが、島津義久は戦国時代の中でも第一級の武将であったこと。つまり、城下町の整備が「関のケ原の戦い」の後であり、今後大きな戦いはなく、これからは平安で「経済の時代」が到来することを予測したから、このような経済的にも発展性のある街並みを造ったのではないかと考えられます。

3 風水思想に沿った街づくり

舞鶴城の築城や城下町の整備には、前述しましたように京の陰陽博士の賀茂在信の占いを用いました。

これは、古代飛鳥時代から連綿(れんめん)と受け継がれてきた「風水思想」が根底にあったと思われます。人間には「気」が根源となっており、気が弱まれば「病気」となり、強めれば「元気」となる。さらには、大地にも大きな気の流れがあり、「東北からは悪い気が。西北からは良い気が。」流れているといった考え方です。

特に、東北の方向は「鬼門」といわれ忌嫌われ、京都の平安京の鬼門筋には比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)が建てられ、江戸城の鬼門筋には浅草寺(せんそうじ)寛永寺(かんえいじ)などが建てられました。ちなみに奈良時代に日向(ひゅうが)(のくに)から分国して大隅(おおすみの)(こく)が建国し、その中心だった国府(政庁)の鬼門筋には台明寺が建てられています。

4 舞鶴城と城下町

舞鶴城の築城に伴って建立されたのが、城の東北方向(鬼門筋)にある伊勢(いせ)神社(じんじゃ)です。祭神は(あま)(てらす)大神(おおみのかみ)ほか二座を(まつ)っており、創建は大隅国分寺が建立された平安時代の頃で、当初は現在地より西方へ300mのところに鎮座(ちんざ)していましたが、舞鶴城の鎮守(ちんじゅの)(かみ)として勧請(かんじょう)しただけでなく、国分郷を総括する惣社(そうじゃ)として、現在地に移されました。

   (舞鶴城復元図)城の鬼門筋に伊勢神社がある

また、城下町全体の鬼門筋には、金剛寺(こんごうじ)が島津義久の命令によって建立されました。明治初年の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)によって寺院は壊されてしまいましたが、境内には、島津義久の墓所(市指定文化財・墓所:墓域に墓石と供養塔がありため)があります。島津義久の墓は、島津家菩提寺である(ふく)昌寺(しょうじ)(あと)(鹿児島市)にありますが、城下町の繁栄を願って自らの墓所を設けたのではないでしょか。ちなみに、金剛寺跡の境内には、真応(しんのう)上人(しょうにん)の石室(市指定文化財)、歴代住僧の墓、西南戦争、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の供養碑などもあります。

          島津義久の墓所

このように、築城や城下町の整備に伴い、島津義久は経済的に発展性のある整然とした城下町を造る「現実主義的」の面と、古代から連綿と伝えられてきた風水思想や民間風習を大切のする「陰陽道的」な考えの、2つの相反する側面を併せ持った人物であり、舞鶴城と城下町には至る所にその痕跡を残しています。

文責・写真:鈴木 舞鶴城復元図:国分小学校

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suzuki
霧島市に在住しています。
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