1 島津勢九州平定へ

前回は島津家の成り立ちについて著しましたが、今回は九州における島津家の台頭と島津義久について紹介したいと思います。

島津(しまづ)(よし)(ひさ)は、天文2年(1533)に島津(たか)(ひさ)の長男として生まれました。義久の祖父島津(ただ)(よし)は、忠良の子である貴久・忠将(ただまさ)(なお)(ひさ)とともに動乱の南九州を平定し、義久の父貴久は島津家中興の祖として島津家の基盤をゆるぎないものとしました。

三州平定の足掛かりとなった国分清水城

島津義久は若い頃から、戦いに明け暮れ、父貴久や弟の義弘(よしひろ)(とし)(ひさ)家久(いえひさ)らと九州全土を平定する一歩手前まできましたが、豊臣秀吉の九州討伐によって、九州統一の夢はやぶれました。その主な戦いは次の通りです。

(いわ)(つるぎ)(じょう)の戦い:天文23年(1554)9月~10月

島津家の家中の争いを克服し、分家から島津本家の当主となった島津貴久は、薩摩半島を平定に続き大隅半島側の制圧に向けて、西大隅最大の国人領主であった蒲生氏攻めに着手しました。現在の姶良市にある岩剣城の攻撃は、先代忠良と現当主貴久の指揮の下、次代の当主義久と弟義弘も出陣し、島津氏三代が初めて参戦した戦いとなりました。岩剣城を勢力下に置いたことで、これを足掛かりとして大隅方面への進撃が容易なものとなりました。また、この戦いは島津義久・義弘・歳久の3兄弟が初陣を飾った戦いであり、島津氏が初めて鉄砲を実践で使用した戦いとなりました。

()崎原(ざきはら)の戦い:元亀(げんき)3年(1572)5月

元亀2年6月に島津貴久が没すると、大隅の肝付(きもつき)氏が島津領を侵攻し始めました。これを好機と見た日向の伊東(いとう)(よし)(すけ)は三千余の軍勢をもって島津方の加久(かく)(とう)城(現在のえびの市)方面への侵攻を命じました。この地域一帯を預かっていた島津義弘は、手勢(わず)か300名で10倍の敵に臆することもなく出陣しました。

この戦は、奇襲や島津軍の戦術である「釣り野伏せ」などを駆使し、島津側が勝利したことから、「九州の(おけ)狭間(はざま)」とも呼ばれています。ただ、桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も200人以上の戦死者を出し被害も甚大でありました。この戦いの後、日向の伊東氏の勢力は弱まり、島津氏の日向平定への足掛かりとなりました。

高城川(たかじょうがわ)合戦((みみ)(かわ)合戦):(てん)(しょう)6年(1587)11月

豊後(現在の大分)の領主であった大友宗麟(おおともそうりん)は、キリシタン王国の建設を目指し4万を越える軍勢を日向に侵入させ、島津方が籠る高城を包囲させました。この動きに反応した島津義久は、これを迎え撃つため急行し、高城川を挟んで布陣しました。

この戦いにおいて、大友軍には大友宗麟が率いる本陣と先行している田原紹(たはらしょう)(にん)らの先陣との距離が離れて過ぎており、連携がとれない致命的な弱点がありました。数の勢いに任せて先攻していた田原部隊に対して島津軍は、奇襲や挟撃などのよって撃退して、大友軍を敗走させました。この時の追撃戦によって、大友軍の名だたる勇将や重臣を失い、致命的な損害を(こうむ)り、力関係は一挙に逆転しました。その後、沖田畷の戦いで肥前の龍蔵寺軍を壊滅させるなどして、筑前・筑後にまで及ぶ広大な勢力圏を手にすることができました。

2 島津軍の強さの秘訣

九州最強と言われた島津軍団の強さはどこから来ているのでしょうか。寡兵(かへい)にもかかわらず、大軍を翻弄(ほんろう)する戦術や、将官の指揮統制、死をも恐れない兵員の育成、伝来した火縄銃を巧みに生かした戦術の構築など多くの要因が挙げられますが、その最大の要因は島津貴久・義久親子を中心とした島津一族の結束であり、義久を中心とした4兄弟の適材適所の分担ではないでしょうか。義久兄弟については次回紹介したいと思います。

下記の表は、島津氏を中心とした主な戦いに使用した火縄銃の推定数を示しています。天文12年(1543)に伝来した火縄銃は各地に広がり、戦国時代末期の日本全体の保有数は10万挺に達したとも言われています。ちなみに、この時代における火縄銃の数は世界最大の保有国となっているようです。日本国全域で戦いが繰り広げられていたことがわかりますね。

年  代戦 い対戦者鉄砲の数
天文12年(1543)鉄砲伝来 2梃
天文23年(1554)岩剣城の戦い島津氏×蒲生氏100梃
弘治 元年(1555)旭山城の戦い武田氏×上杉氏300梃
永禄12年(1569)立花城の戦い大友氏×毛利氏1200梃
天正 3年(1575)長篠の戦い織田氏×武田氏3500梃
天正12年(1584)沖田畷の戦い島津氏×龍造寺氏4000梃
天正13年(1585)根来攻め豊臣氏×雑賀・根来7000梃

※歴史群像シリーズ「島津戦記」より抜粋・一部修正

また、次の表は島津軍の主な合戦とその兵力、戦術を現わしました。合戦のほとんどが、寡兵にもかかわらず大軍を相手にした戦いであり、それぞれの合戦相手や戦場に合わせた戦術を()っていることがわかります。

合戦名合戦相手島津軍敵 軍戦 術合 戦 状 況戦況
岩剣城蒲生範清5002,000陽動・奇襲陽動部隊が敵を攪乱城攻
木崎原伊東裕安3003,000攪乱・奇襲劣勢をゲリラ戦と奇襲で突破野戦
耳川大友宗麟30,00050,000釣り野伏せ囮を使い三方から挟撃野戦
沖田畷龍造寺隆信3,00030,000釣り野伏せ有利な地形へと誘い伏兵で撃破野戦
岩屋城高橋紹運50,000763力攻め力攻めで陥落(4,500人の損害)城攻
戸次川長宗我部元親15,0007,000釣り野伏せ敵の渡河を待ち、鉄砲・弓で挟撃野戦
高城川豊臣秀長20,000200,000 圧倒的な兵力差のため敗退野戦
関ヶ原徳川家康1,500104,000捨て(かまり)敵中に孤立、中央を突破し帰国野戦

※歴史群像シリーズ「九州軍記」より抜粋・一部修正

文責:鈴木

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suzuki
霧島市に在住しています。
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