霧島六社権現とは

霧島神宮については、以前、社殿の国宝化に伴いその指定理由について紹介しました。

今回は霧島神宮を含め、霧島連山を囲むように鎮座している「霧島(きりしま)六社(ろくしゃ)権現(ごんげん)」について紹介します。

1 霧島六社権現とは

霧島六社権現とは、霧島神宮(霧島市)、霧島(きりしま)(ひがし)神社・(せま)()神社(高原町)、東霧島(つまきりしま)神社(都城市)、霧島(みね)神社(小林市)の5社を総じて呼んでいます。

以前は名前の通りの6社でしたが、霧島岑神社と(ひな)(もり)神社が明治6年(1873)に合祀(ごうし)されたため、現在は5社となっています。

                霧島神宮

霧島山周辺の神社を六社権現として整備したのは、10世紀の村上天皇のころ、天台宗(てんだいしゅう)を奉じ修験(しゅげん)(どう)信仰(しんこう)を確立した「(しょう)(くう)上人(しょうにん)」です。

性空上人は霧島山中で修行して霧島山信仰を体系づけた人物であり、高千穂峰頂上にある「(あま)逆鉾(さかほこ)」も、この性空上人の流れをくむ修験者が置いたものではないかと言われています。

六社権現の御祭神は、日向三代をはじめ天孫系の神々を祀っていますが、本来は霧島山そのものを御神体とした「霧島御山(おやま)信仰」でした。

最近では観光的な意味合いで、霧島六社権現と同じく性空上人が整備した、えびの市の「白鳥(しらとり)神社」や高原町の「(かすみ)神社」を入れて6社とすることもあるようです。

               霧島東神社

2 霧島六社権現と霧島六所権現

霧島六社権現のほかに、「霧島六所権現」という表現があり、しばしば混同されているようです。この場合の六所の「所」は、神仏や貴人を数えるのに用いる語であり、場所のことではありません。日向三代の夫婦六座を祀っていることから、六所権現と呼んでいます。

ちなみに、日向三代の夫婦六座は次のとおりです。

瓊々(にに)(ぎの)(みこと)木花咲耶姫(このはなさくやひ)()
彦穂々(ひこほほ)()(みの)(みこと)豊玉(とよたま)()()
鵜葺(うがや)草葺不合(ぶきあえずの)(みこと)玉依姫(たまよりひ)()
                狭野神社

3 性空上人とは

霧島六社権現や白鳥神社、霞神社を整備した性空上人は、応和(おうわ)3年(963)、36歳のときに霧島山に来られ、山中で4年間の厳しい修行を積まれました。

その後、京都に帰られ、兵庫県の書写山(しょしゃざん)(えん)教寺(ぎょうじ)を開山し、(かん)(こう)4年(1007)、80歳で入寂(にゅうじゃく)(徳の高い僧侶が亡くなること)されました。

               霧島岑神社

性空上人は霧島滞在中に、狭野神社の別当寺(しん)徳院(とくいん)の再興や霧島東神社の別当寺(しゃく)杖院(じょういん)の開山を始め(別当寺:江戸時代以前に神社を管理していた寺のこと)、農業の改善や新しい商売のノウハウを(すす)めるなど、地元の人々の生活を(うるお)し、この地域の産業振興にも大きく貢献されました。

また、霧島山中には、性空上人の足跡が至るところに残されています。霧島東神社近くの絶壁の洞穴に性空上人の石像が安置されています。ここは性空上人が護摩(ごま)供養(くよう)をしたところと伝えられており、御池の七港のひとつ「護摩壇港(ごまだんこう)」の名が今日まで残っています。

               東霧島神社

4 霧島山と六社権現

霧島山は、修験者が修行する神聖な地であり、当時の霧島連山の火山活動は、桜島よりはるかに活発であったことから「恐山(おそれやま)」として畏敬(いけい)と信仰の対象でありました。

霧島六社権現のある場所は、共通して霧島山の登山口にあるように思えます。これは、(けが)れを落して身を清めてから入山するために、神社を置いたとも考えられます。穢れたまま入山すると山の神が(いか)る。すなわち火山噴火に繋がることを恐れていたのではないでしょうか。

東日本大震災の時に話題となりましたが、神社や(ほこら)、地蔵の位置は、江戸時代以前に起きた地震によって津波の被害を免れた境界線であったように、霧島六社権現もそれぞれ意味のある場所に建立されているのではないでしょうか。

文責:鈴木               (写真:著者撮影、霧島市提供)

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霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。