1 隼人(はやと)(じょう)とは

「隼人城」と言いますとなかなか聞き慣れなくて、旧隼人町付近にあった山城って想像されがちですが、実は国分市街地の北側にあります「国分城山公園」が隼人城です。国分城山といえば地元ではほとんどの方に知られており、現在では市民の憩いの場(市民公園)として親しまれています。

           隼人城跡から国分平野を望む

隼人城は、別名を早人(はやと)城、曽之(その)(いわ)()国府(こくふ)城、清水(しみず)新城(しんじょう)国府(こくふ)新城(しんじょう)などと呼ばれていました。その地形は、約3万年前の火山噴火でできた姶良カルデラの火口壁で形成されており、山頂は標高190㍍、東西700㍍、南北900㍍の溶結(ようけつ)凝灰岩(ぎょうかいがん)の比較的平坦な台地を成しています。台地の周辺部は約50㍍の絶壁で囲まれており、まさに天然の要害(ようがい)として、古代から国分地方を代表する山城として使われてきました。

             隼人城跡

2 ハヤトとは

ここで、隼人城の名の由来となった「ハヤト」について紹介したいと思います。ハヤトといえば鹿児島では強い男性を象徴する呼び方で「薩摩隼人・大隅隼人」などがあります。

また、ハヤトに対してクマソと言う呼び名があり、「クマソとハヤトの違いは何ですか?」という質問をよく受けます。私の見解では、種族(しゅぞく)的には縄文時代から南九州に住んでいた土着(どちゃく)(たみ)で、大和政権に組せず抵抗していた時代の人々を「クマソ」、大和政権の支配下に置かれ従属してからの人々を「ハヤト」と呼んでいると思っています。

ちなみに、カタカナ表記は民族名の時に使い、地域名や文献に書かれていた場合は漢字を使っています。ここでは、住んでいた人々は「ハヤト」、城名は「隼人」と記しています。

3 隼人城の歴史的背景

隼人城は、昭和50年の頃まで平らな台地を活かした畑地となっていましたが、市街地から近く、眺望(ちょうぼう)にも優れていたことから、市民公園として整備する方針が決まりました。しかし、当地は古代から山城として使われていたことから、昭和52年から翌年にかけて公園整備に伴う発掘調査が行われました。

その結果、縄文時代、古墳時代(5世紀初め)、奈良時代(8世紀初め)、室町時代(16世紀の中頃)にかけての遺構や遺物が発見されました。

特に、5世紀初めに近畿地方で使われていた「布留式(ふるしき)土器」と南九州で使われていた「成川式(なりがわしき)土器」がひとつの竪穴(たてあな)住居の中から出てきたことは、当時すでに近畿地方の人々が隼人城に居たことを示しています。

      布留式土器(近畿地方)
       成川式土器(南九州)

これは古事記(こじき)日本(にほん)書紀(しょき)に書かれている、いわゆる「クマソ征伐」に(まつ)わる伝説にも合致することを(あらわ)しており、非常に貴重な資料となっています。

また、8世紀初めの頃といいますと、独立(どくりつ)独歩(どっぽ)の意識の強いハヤトの人々は奈良朝廷が(すす)めた中央(ちゅうおう)集権(しゅうけん)体制(たいせい)に不満を持ち、養老(ようろう)4年(720)に大隅国の(こく)(しゅ)であった()侯史(このふひと)麻呂(まろ)が殺害される事件「隼人の乱」が起こりました。奈良朝廷は大伴旅人(おおとものたびと)征隼人持(せいはやとじ)(せつ)大将軍(だいしょうぐん)(じょ)し、1万人以上の軍勢でハヤトを討伐しました。ちなみに、ハヤトの勢力は2,000人ほどだったと思われます。

大分の宇佐(うさ)八幡宮(はちまんぐう)に伝わる『宇佐(うさ)八幡(はちまん)託宣集(たくせんしゅう)』に書かれている「隼人七城」のうち、最後(約1年半抵抗した)まで朝廷側に抵抗して立て()もった曽之(sの)(いわ)()が、遺物の出土状況からみて隼人城であったことを示しています。

              隼人城跡 遠景
      隼人城の大手門(正面入口)近くから見た国分平野

さらには、16世紀の中頃といいますと、大隅地方を治めていた守護(しゅご)(しょく)(室町幕府が任命)の勢力が弱まり、地元で有力であった本田(ほんだ)()が台頭してまいります。さらには本田氏に()わり島津氏が勢力を伸ばしてくる時期であり、軍事的緊張が背景となって隼人城を山城として手を加えられたと考えられます。

 このように、隼人城は国分地方の歴史的にも重要な時期に「山城」として使われていたことがわかります。

次回は、隼人城の地形的特徴と城名の変遷(へんせん)について紹介します。

文責:鈴木      写真:著者撮影、霧島市提供

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