江戸時代の宝暦(ほうれき)4年(1754)から翌年にかけて行われた「木曽三川治水工事」(現在の岐阜県海津市(かいづし))は、その後の薩摩藩にとって物心両面で大きなターニングポイントとなりました。

1つ目は、治水工事による多額の経費が契機となり莫大な借財を作り、経済(けいざい)破綻(はたん)となるような状況に(おちい)りましたが、藩主自らが主導し強硬な財政改革を行いました。その結果、藩の財政は好転し55万両の備蓄(びちく)を持つまでとなり、この蓄財が幕末の集成館事業や倒幕の資金源となりました。

2つ目は、徳川幕府に対する「恨み」の心を根付かせたことです。治水工事の際、幕府役人からの苛烈なまでの仕打ちは、自刃する藩士が後を絶ちませんでした。自刃した藩士を「腰物(こしのもの)にて致怪我相果候(げがにいたりあいはてそうろう)(つき)」(刀で怪我をして死亡しました)と幕府にはばかって事実を隠さなければならないことや、その後の過酷な財政改革は藩内の人々を苦しめ、幕府に対して恨みを募らせていきました。

また、治水工事と財政改革には共通した出来事があります。それは、治水工事による犠牲者(薩摩(さつま)義士(ぎし))や財政改革の第1の功労者であった「家老調所(かろうずしょ)(ひろ)(さと)」を歴史の表舞台から消されたことです。本来であれば、薩摩藩を救った英雄として称賛される人たちですが、幕府や当時の為政者(藩主島津斉彬)のために歴史に埋もれた存在となりました。

今回は、薩摩藩における治水工事の事後処理ともなった天保の財政改革と調所広郷について、2回シリーズで紹介してみたいと思います。

1 薩摩藩の構造的欠陥

 薩摩藩の石高は一般には77万石と言われていますが、実質は72万石あまりで、金沢藩102万石につぐ天下第2の大藩ですが、他藩に比べて、地域性や組織に構造的な欠陥があり、江戸時代の当初から財政赤字に苦しんできました。その要因は次のとおりです。

①武士の割合が多い。他藩 → 人口5%  薩摩 → 25%

②薩摩藩の米の石高は(もみ)(だか)である。米高にすれば36万石程度。ちなみに他藩は玄米高。

③領内は生産性の低い火山灰土壌(シラス)に広く覆われており、やせた土地が多く、稲作や畑作に適した土地が少なかった。

    谷あいの水田(土地は狭く水害などの被災が多い)

④台風や火山噴火・土砂崩れなどの災害が多く、農業的にはきわめて貧弱な土地が多かった。また、霧島噴火(1716~1717)、桜島噴火(1779)は火山灰によって田畑が埋没してしまい多大な被害があった。

     台地上の地層(火山灰層が重なって堆積している)

⑤徳川将軍家や公家との婚姻に際し大変な出費を要した。特に、享保(きょうほう)14年(1729)藩主島津(つぎ)(とよ)への将軍家養女である竹姫の輿入れでは、江戸藩邸隣に広大な屋敷用地が与えられ、御守殿(竹姫の住まい)の造営から豪華な婚礼儀式を行った。200人もの女中を抱えた、竹姫の一年間の生活費だけでも5000両あまりを要した。

2 薩摩藩の財政状況

このようなことから、薩摩藩の慢性的な財政赤字は、江戸時代初期から始まっており、元和(げんな)2年(1616)には2万両、治水工事の始まる宝暦4年(1754)には66万両に及んでいました。その後も、安永(あんえい)8年(1779)の桜島噴火による田畑の損壊や幾度の江戸藩邸火災等も重なり、代々の家老たちも改革や倹約令を試みたものの、藩債は増加の一途をたどりました。さらに、天明(てんめい)8年(1788)の京都大火で皇居が炎上、藩邸も類焼し、皇居造営料20万両の上納を命ぜられるなど、宝暦の治水工事から約80年を経た文政(ぶんせい)12年(1829)には、藩債が遂に500万両に達しました。

薩摩藩の借金の推移

年 号西 暦銀 高金 高
元和2年16161千貫2万両
寛永9年16327千貫14万両
寛永17年16402万千貫34万両
寛延2年17493万4千貫56万両
宝暦4年17544万貫66万両
享和元年18017万2千600貫117万両
文化4年18077万6千128貫126万両
文政十年182732万貫500万両
天保元年~1830~天保の改革
弘化元年18443万貫の備蓄50万両の備蓄
                                   「鹿児島県の歴史」より

当時の薩摩藩の500万両の借金は、年間利息だけで年90万両を越えており、薩摩藩の年収が12~14万両であったことから、返済不可能、つまり破産状態に陥っていました。  

「天保の財政改革」については、次回に紹介します。     文責:鈴木

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suzuki
霧島市に在住しています。
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