霧島市福山町から曽於市末吉町にかけて、「惣陣(そうじん)(おか)」「陣ヶ岡」「高之峯」と3つの丘(山)が並ぶように点在しています。その特徴としては、次のような点が挙げられます。

①姶良カルデラの台地上にあり、周辺部には高い山がない

②そのため全方位を一望に見渡せる

③それぞれの丘が遠目ではあるが見通せる

④3つの丘に「陣が丘」に(まつ)わる伝承や名前が付いている

⑤旧日州街道(鹿児島の島津本家と都城島津家を結ぶ主要街道)沿いにある

今回はこの3つの陣が丘とその歴史的背景について2回にわたり紹介します。

1 惣陣(そうじん)(おか)(霧島市福山町牧之原)

霧島市福山町牧之原(国道10号)を宮崎方面へ走りますと、左手に「フクヤマ」と花文字で書かれた山が見えてきます。この花文字は鹿児島空港へ到着する飛行機の中からも見えますし、お盆と年末年始の時期にはイルミネーションで花文字が(いろど)られます。

        惣陣が丘(フクヤマの花文字が見える)

この山の標高は483.5m、周囲は錦江湾、桜島、霧島連山、鹿屋の高隈山(たかくまやま)などが見渡せる風光(ふうこう)明媚(めいび)な山で、「惣陣が丘」と呼ばれています。古くは、遠くからは古墳のような塚(墓)に見えることから「大塚(おおつか)」とも呼ばれていました。

     惣陣が丘から牧之原地区・曽於市方面を望む

現在、牧之原地区には大塚団地という公営住宅がありますが、この大塚山がその名の由来となっています。また、大塚山の北側には塚脇という集落がありますが、地元の方から「大塚の(ふもと)(脇)にあるから塚脇という地名となった」と教えていただきました。

このように、惣陣が丘は本来「大塚」と呼ばれていたようですが、(えい)(ろく)4年(1561)、肝付氏との戦い((めぐり)(じょう)の戦い)で、島津家15代当主島津(しまづ)(たか)(ひさ)がこの大塚に本陣を置いたことから「惣陣が丘」と呼ばれるようになりました。

廻城の戦いは次のとおりです。

肝付の高山城(こうやまじょう)を拠点として大隅半島で勢力を延ばしてきていた肝付兼(きもつきかね)(ぞく)は、島津氏と縁戚関係でしたが積年の利害対立から、全面的な武力抗争となりました。永禄4年5月14日、肝付軍は島津方の(めぐり)(じょう)(現在の福山町)を急襲しました。島津貴久は6月23日、弟の島津(しまづ)忠将(ただまさ)(国分清水城主)と長男の島津(しまづ)(よし)(ひさ)に命じて、廻城の肝付軍を攻めさせました。肝付兼続は伊地知(いじち)重興(しげおき)()(じめ)(しげ)(たけ)の助けを得て島津軍と対峙し、城の攻防は約2か月にも及びました。この時、島津貴久は義久と共に大塚(惣陣が丘)に布陣し、島津忠将は()(たて)に、別動隊を竹原山に置きました。7月12日未明、肝付軍は竹原山(たけはらやま)を攻撃し、忠将が急ぎ救援に駆けつけましたが、伏兵(ふくへい)に取り囲まれ、従兵70余人と共に奮戦しましたが力尽きて討ち死しました。貴久は忠将の死を聞いて大いに怒り奮戦し、ついには肝付軍を撃破し兼続らは敗走しました。(一説では肝付氏が自ら軍を引いたとも言われています。)

  島津忠将の供養塔(中茶屋公園近くにある)
           惣陣が丘から廻城方面を望む
          中茶屋公園から錦江湾・桜島を望む

また、この戦いで身内の忠将が討ち死しましたが、勝利へ導いたことから「(わざわい)転じて福となす」として、「廻」から地名を「福山」へと改名しました。

その後、江戸時代になると惣陣が丘には陣屋が設けられ、人が配置されました。これは、当地域を統治する目的ではなく、惣陣が丘の特性を活かした軍事的目的(見張り台)があったのではないかと思われます。

一方、福山牧之原一帯は牧場地となり、馬の生産の一大拠点(日本一の牧場)となっていきました。ちなみに、福山の牧之原・牧野、国分の牧内、霧島の牧神・牧内、牧園の牧園には全て「牧」の字が付いていますが、この一帯が牧場だったことを地名からも読み取ることができます。

次回は、「陣ヶ岡」「高之峯」について紹介します。

写真:著者撮影       文責:鈴木

投稿者プロフィール

suzuki
霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。