下豊留です。
近頃、梅毒患者が増えているという記事をよく目にします。
直近では「読売新聞オンライン」で、梅毒と今年診断された患者数は10月23日までに全国で1万141人に達したという記事を読みましたし(2022年10月27日付記事)、地元紙「南日本新聞」でも、鹿児島県内で若者を中心に梅毒の感染者が急増していると報道されていました(2022年10月20日付記事)。

こうなると、性感染症に関して昔はどうだったのかなと気になるところです。遡ること約150年前。
鹿児島の医療の発展に多大な貢献をしたウィリアム・ウィリス先生が、当時も流行していた梅毒のことについて報告をしています。

ウィリス先生は、イギリス人です。
戊辰戦争で負傷者の治療をしてくれたお医者さんです。
維新後は、東京医学校兼病院(東京大学医学部前身)で働きますが、ドイツ医学を採用することになり、ウィリスは辞任をすることに。
その後は、西郷隆盛の推薦もあり鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部前身)の院長として、鹿児島の医療の発展に尽くしてくれました。
東大にも鹿大にもゆかりのあるお医者さんです。
医学校は、はじめ浄光明寺跡(南洲公園)にありましたが、のちに小川町へ移ります。
「赤倉病院」と呼ばれ、現在は石碑だけが残っています。

赤倉病院跡の碑

石碑は交差点のところにありますので、見学される際は注意してください。

鹿児島で多くの医学生を育てたのですが、中でも右腕として活躍した人が高木兼寛です。
高木兼寛は、脚気の原因をつきとめたことから「ビタミンの父」と呼ばれています。
成医会講習所(現・慈恵医科大学)を創設した人物としても有名です。師匠のウィリスと一緒に銅像になっています。

「ウィリス、高木に西洋医学を説く」

鹿児島県民交流センター・鹿児島医療センター・黎明館・合同庁舎の交差点のところです。

前置きが長くなってしまいましたが、ウィリス先生が梅毒についてどう語っていたのか、ウィリスの文書から見ていきましょう。
特に売春婦が亡くなってしまっている状況を嘆いて、正しい治療をするべきだと言っています。

「激しいかゆみがあり、不潔な状況のために悪化して多くの人を死に至らしめている。
梅毒を除去しようとするいかなる努力も効果はなく、菌が全体を浸蝕し、体力を甚だしく消耗させると信じられている。梅毒は体内に存在する病菌を表面に引き出す自然の力の表れであると考えられている。
江戸では売春婦の約10%が梅毒患者であり、横浜ではその2倍である。
日本では梅毒患者が顔の骨を冒されることがよくあり、例えば目や鼻、髪の毛や骨などが冒されてなくなったり、体中に発疹が出るなど、誰の目にも明らかな結果をもたらすことも稀ではない。
病気に罹った売春婦の、少なくとも初回の治療費は売春宿経営者の負担になる。
1回の治療で済まないような重症の場合、往々にして治るまで家族のもとに帰される。十分回復したらまた元の宿に戻り、契約を全うするまで働かなければならない。
(中略)
日本全般について言えば、田舎では梅毒の症例はほとんどないが、大きな町では30歳の男性の3分の1が罹っている。」

そして、性感染症から守るために、

「筆者(ウィリス)の考えでは、売春に関して我が国の外交あるいは領事部門担当者が、日本の指導者層に対して有益な影響力としてなすべきことは、日本政府が条約港に性病院を設立し、感染した売春婦がしばらく休業することを徹底させること、さらにそのためには、優れた専門家により少なくとも一週間に一度の定期検診が、全売春婦を対象に実施することを命じることである。」

大山瑞代・訳『幕末維新を駆け抜けた英国人医師-甦るウィリアム・ウィリス文書-』

約150年前も流行していた梅毒。
ウィリス先生は、専門の病院をつくることや定期検診の大切さを説いていました。
今も昔も大切なことは変わらないですね。
自己判断せず、何かあれば速やかに医療機関に相談することが大切かなと思います。
気をつけていきましょう!

投稿者プロフィール

下豊留 佳奈
下豊留 佳奈
オフィスいろは
下豊留佳奈(しもとよどめ かな)
鹿児島生まれの鹿児島育ち。
地元が元気になればと思いあれこれ活動しています。
共著に『鹿児島偉人カルタ55』(燦燦舎)
2021かごしまの新特産品コンクールで鹿児島県観光連盟会長賞を受賞しました。
第一工科大学と鹿児島第一医療リハビリ専門学校の非常勤講師
鹿児島県立図書館協議会委員
昔話と歩くことが好きです。