霧島市国分の中心地(市街地)は碁盤の目のように整然とした街並みとなっています。これは、島津家第16代当主島津(しまづ)(よし)(ひさ)が築いた「舞鶴城」を起点として城下町が整備され、この時の街並みが現在まで使われています。島津義久は国分地域の発展はもとより、祖父島津忠良、父島津貴久、さらには義弘をはじめとした四兄弟とともに、九州を平定するほどの最強な軍団を作り上げました。

今回からシリーズで「島津義久と霧島」について紹介したいと思います。

舞鶴城石垣

1 島津家とは

島津家の始まりは、鎌倉時代の初めに惟宗(のぶむね)(ただ)(ひさ)(1179~1227)が南九州に広がる日本最大の荘園「島津(しまづ)(のしょう)」の下司(げし)(しょく)地頭(じとう)(しょく)に任命され、島津を性としたことに始まります。

島津荘は、11世紀、(たいら)季基(のすえもと)日向(ひゅうがの)(くに)島津院(しまづいん)(現在の都城市)の荒野を開墾(かいこん)して関白藤原氏が寄進したのが始まりで、後には薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大の荘園となりました。都城市に「島津家発祥の地」の石碑が建てられたのはこのためです。

島津家発祥の地 記念碑

2 島津忠久の誕生に纏わる秘話

島津氏の出自を示している『島津氏の正統系図』では、清和天皇から始まったとされています。これは、島津家の祖である忠久の実の父親は、清和源氏の源頼朝(鎌倉幕府を開いた将軍)である。という説を採用しているためです。この系図には、忠久の誕生についても書かれています。

源頼朝の子を身籠った「丹後局」は、頼朝の妻である北条政子の嫉妬を恐れて西国へ逃げる途中に、摂津国(大阪・兵庫)の住吉社(住吉大社)の境内で、雨の中狐火に守られて忠久を生んだ、と書かれています。

この逸話に基づいて、島津家は稲荷社を信仰しており、雨を「島津雨」といってめでたい事が起こる前兆として尊ばれています。今でも、慶事の日に雨が降ると、お互いに「今日は島津雨ですね」と言った挨拶が交わされています。

3 島津氏の薩摩入り

鎌倉幕府から南九州の統治をまかされていた島津氏は、初代忠久から3代(ひさ)(つね)までは鎌倉に住居を構えて、所領は代理人を通して管理をしていました。しかし、文永11年(1274)の蒙古が襲来し、久経は九州防衛のため北九州に布陣しました。その後も北九州に布陣し続け、久経は弘安7年(1284)陣屋で亡くなりましたが、久経の後を継いだ4代忠宗(ただむね)は薩摩に下向し、本格的に領国の経営に取り組みようになりました。

4 戦国時代の島津氏

戦国時代の南九州は、下剋上が横行し各地の豪族や分家した島津家が力を持ち始めました。そのため、宗家である島津家の勢力は弱まり、守護職としての権威は失われてきました。これを憂いた第14代島津(しまづ)(かつ)(ひさ)は、加世田を中止とした薩摩半島で勢力を伸ばしてきていた伊作(いさく)島津家の島津(しまづ)(ただ)(よし)の子、島津(しまづ)(たか)(ひさ)に家督を譲り、宗家の立て直しを企てました。

第15代の島津家当主となった島津貴久は、薩摩半島を足掛かりとして勢力を伸ばし始めます。その第一段階として、勢力圏の飛び地となっていた国分・清水地域を守るため、弟の忠将(ただまさ)を城主としますが、天文(てんもん)17年10月から翌年11月までの間は、当主自ら清水城に入り、加治木勢の鎮圧に専念しました。

島津貴久時代の所領(国分地方が飛地となっている)

ちなみに、国分地域は第6代当主島津(しまづ)(うじ)(ひさ)の家臣本田氏に清水城を預け、天文17年(1548)に本田氏が滅亡するまでの150年間、本田氏が支配していました。

5 島津貴久とフランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエルはローマ法王庁とポルトガル王国の指名で、1541年からアジア圏でのキリスト教の布教のため派遣されました。その最中、マラッカでヤジロウという薩摩の青年と出会ったのを機に、日本への関心を強めていました。

ヤジロウを案内人にして、天文18年(1549)7月22日に鹿児島に到着、8月28日に島津貴久と会見し布教の許可を得ました。これは日本文化と西洋文化の初めての出会いという歴史的に非常に重要な出来事です。

ところで、この初会見の場所は、永らく島津貴久の居城であった伊集院の(いち)宇治(うじ)(じょう)と言われてきましたが、国分の清水城ではないかという新たな見解が出てきました。

当時、島津貴久の居城は一宇治城だったのですが、ザビエルが来訪した天文18年は姶良地方の征圧のため清水城に1年間滞在し(いくさ)の指揮をとっていました。

この戦いは、島津家の存亡を賭けた緊迫した戦いであったため、貴久自ら陣頭指揮をとっていたようです。このような状況下、わざわざ戦場から離れた伊集院の地で異国人と会える余裕があったのか。という見解から、「初会見国分清水説」が浮上しました。また、ザビエルの後任で戦国時代にやってきたフロイスという人の日記にも「コクフ」という文字が書かれ、鹿児島から約30㌔離れた場所とも書かれています。

天文17年10月14日  島津貴久、清水城に移る
天文18年 7月22日  ザビエル鹿児島に上陸
天文18年  8月28日  島津貴久・ザビエル初会見 
天文18年11月28日  国分平定、一宇治城に帰る
天文19年 7月22日  ザビエル鹿児島を離れる    (月日は旧暦)

その後、国分地域を平定した島津貴久は伊集院の一宇治城に帰城し、ザビエルが鹿児島を離れる、約8ヶ月の間に、幾度となく会見していますので、一宇治城で謁見したのは間違いないようです。初会見の地については、古文書などの確固たる証拠がないため、状況証拠の上での見解となっていますが、歴史のロマンを感じさせられます。

島津家の九州平定への道や何故島津義久は国分を終の場所にしたかについては、次回紹介します。              文責:鈴木

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suzuki
霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。