(ぶん)(ろく)4年(1595)、豊臣秀吉の命による領地の国替えが行われ、島津義久の領地は薩摩国から大隅国へとなりました。そこで、義久は鹿児島から浜之市の富隈城へ移りました。義久は富隈城に9年間過ごし、その後、国分の麓に舞鶴城を築城させ、慶長(けいちょう)9年(1604)移り住みました。今回はなぜ舞鶴城を新たに(きず)いたのかについて紹介します。

     舞鶴城石垣(石垣前の樹木は明治以降に植樹された)

1 なぜ、舞鶴城を築いたのか

島津義久はなぜ国分(こくぶ)(ふもと)に舞鶴城を築き、城下町を整備したのでしょうか。義久が舞鶴城の築城を命じた資料はなく、確固たる根拠はありませんが、私は、築城の完成が慶長9年という時期が重要なポイントになると考えています。

舞鶴城の完成が慶長9年ということは、義久が築城に着手したのは少なくとも2~3年前であることが推定できます。つまり、築城の命令は、慶長5年(1600)9月に起きた関ケ原の戦いの直後、または、徳川家康から島津氏の領国が安堵(あんど)された慶長7年4月の頃ではないかと考えられます。

島津義久は戦国の時代を生き抜いた第一級の武将です。この時期は(いま)だ豊臣政権は存続していましたが、関ケ原の戦いによって徳川家康が天下を手中し、天下の趨勢(すうせい)は徳川家を中心とした新たな時代になると肌感覚で察知したはずです。そのような背景から、富隈城では心元(こころもと)ないと感じたのではないでしょうか。

2 なぜ、国分麓に築城したのか

富隈城から舞鶴城に移り住んだ理由として、いくつか()げられますが、まず第1の要因としは、防御が脆弱(ぜいじゃく)だったということでしょう。富隈城は平野の真っ只中にあり、平城で防御もほとんどありません。これは、豊臣秀吉に恭順(きょうじゅん)した姿勢を(あら)わすために、あえてこのような場所に城を造ったという理由がありますが、今後いつ徳川方が攻めてくるか分からない状況であることから、舞鶴城の後背(こうはい)に隼人城(()め城)を配した構造、つまり防御に徹した城が必要だったと思われます。

第2の要因としては、(ふう)(すい)思想(しそう)見合(みあ)った場所であることが考えられます。戦国時代といいますと戦いに明け暮れており、勝利のための戦略の工夫や戦術の最新化(築城の工法、火縄銃等)など、とかく合理的なイメージがありますが、築城の場所選定や戦いの日時などを吉凶(きっきょう)で占うことが多々ありました。(次回のコラムで紹介しますが、舞鶴城周辺の社寺は風水思想にあった場所に配置しています。)舞鶴城は、北側には山が(かく)(よく)のように囲み、南側には広々とした土地と河川が横切る地形(北山(ほくざん)南川(なんせん))であり、風水的にも最適な場所だったと思われます。

    隼人城から国分平野を望む(平野中央の水田地帯は旧天降川跡)

ちなみに、舞鶴城に西隣には大隅(おおすみ)国分寺(こくぶんじ)があります。国分寺を建立する際の場所選定にも次のような勅命(ちょくめい)(しょう)()天皇(てんのう)から下されました。

➀国の華として仰ぎ見るのによい地形
②水害等の憂いなく、長久安穏の場所
③人家の雑踏から離れていること
④人が集合するのに不便でなく、交通要所なところ
➄国府に近いところ
⑥条里区劃の拘束を甘受すること
⑦南面の土地であること

このように、南側が開けて城下町が造りやすく、風水害にも強い、さらには周辺に適度な住民が住み、交通の要所であることを示しており、義久にとっても国分寺建立の地といった場所は大いに参考になったと思われます。

第3の要因としては、城下町の整備と錦江湾・天降(あもり)(がわ)を利用した交易の拠点づくりと将来的に発展性のある場所であることが挙げられます。

城下町の整備は、戦術的には(ぼう)御壁(ぎょへき)としての役割と、地域の経済的発展に(つな)げることができます。特に、関ケ原の戦い以降は、大きな戦いも起こりにくく、平和な時代の到来が予想されることから、経済の発展に特化した街づくりが必要ではないかと、義久級の武将なら考えたと思われます。次回のコラムにも記述しますが、城下町が碁盤の目のように整然とした街を造った背景にはこのような実情がありました。

3 舞鶴城のつくり

城のつくりは、高さ3m、長さ200m余りの野面(のづら)()みの石垣と堀に囲まれた屋形造(やかたづく)り(平屋1階建て)の城で天守閣(てんしゅかく)はありません。戦いを想定した城でなく、日常の生活と領国の統治を行う行政を(つかさど)る場としての屋敷となっています。大規模な堀や石垣、天守閣を持たない城づくりは、徳川方に配慮した造りとなっていますが、後背に詰め城を配した構造は、非常に合理的な城づくりです。

         舞鶴城復元図(国分小学校所蔵)

その後(江戸時代)の平和な時代の城の役目を考えますと、(そう)(かま)えの城は非常に無駄が多く感じられます。ちなみに、熊本城では登城するのに、城下から幾重(いくえ)にもある堀をまわり道しながら橋を渡り、大手門(おおてもん)(くぐ)り、その後も屈曲(くっきょく)した石垣と各門を潜る道中は、戦時には有効ですが日常では無駄しかないように思われます。

また、元和(げんな)元年(1615)の江戸幕府が発布した「一国一城令」により、鶴丸(つるまる)(しろ)(現在の黎明館)以外に城を持つことができなくなりました。特に薩摩藩は、堀や石垣、天守閣を持つことが許されず、元来島津家がとってきた「()(じょう)制度(家臣団を本城周辺に置かず、各地域に分散して、人をもって城と成すという考え方)」とあいまって、舞鶴城の屋形造りは先見の明があった構造となっています。  文責:鈴木

投稿者プロフィール

suzuki
霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。